こんばんは。
今日は映画の感想を書きたいと思います。
今回は「ノートルダムの鐘」についてです。
何でこのタイミング?と思われたかもしれませんが、んー、昔見たのですがどんな内容であったかを思い出せなくて、今のうちにみておこうと思ったんです。
そんなもんです(笑)
私も長々と書くのが得意なようなので、そうならないよう、ポイントを絞ってかつまとめて記事にしたいと思います。
ユーゴ―原作の映画!
この映画の原作は、ヴィクトル・ユーゴ―の「パリのノートルダム」と言う作品だそうですね。(Wikiより)この人って、「レ・ミゼラブル」の原作者ですよね。へぇ~と思っちゃいました。
音楽はアラン・メンケン。音楽に詳しいわけではないので何とも言えませんが、やはり登場人物の心情を表すには、ミュージカルのような歌が一番よく伝わるのかもしれません。(エスメラルダの歌う”God Help”のように)
「差別」を考える
作品の核となるのはやはり「差別」でしょうか。ジプシーや障がいのある人に対する偏見、差別。それらが結局は対立や争いを生むわけですよね。
そんな中でも主人公のカジモドは、優しさを忘れず、友人(石像の3人組など)に励まされて、困難に立ち向かっていきます。なかなかそう簡単にできることじゃないですよね。
「正義」と「悪」 -フロローのヴィランズ考
この作品の悪役は「フロロー検事」。強面で頑固そうな様子は、顔から伝わってきます。
悪役をみるとき私は、「本当にその人は救いようのない悪者なのか」という視点でみております。今回のフロローについては、当初は神(寺院の神父さん)の言いつけを守り、20年と言う長い年月、カジモドを育てました。隔離して閉じ込めてはいたものの、カジモドが世間の目に触れたら、相当な扱いを受けることを危惧したからだという理由であれば(現代では人権侵害で絶対に許されませんが)、「当時であれば」納得がいくようにも思えます。
パリの街、市民をこの手で守る。フロローの信念は一見、正義によるもののようにも見え、彼の行動に納得をしそうになります。
私は西村京太郎の「十津川警部」シリーズドラマが好きでよく観るのですが、とある回のエンディングに、十津川警部(渡瀬恒彦)と亀井刑事(伊藤四朗)のこんな会話がありました。(屋台のラーメンを食べながら)
十津川「正義と悪って、紙一重なんですね」
亀井「正義とは、『制約のあるもの』であって、悪とは、『制約のないもの』です」
なるほど、感心しちゃいました。制約を設けず、自分の独断と偏見でのみ動いてしまったフロローの行動は、正義のようで悪だったと言えるのではないでしょうか。周りの意見に一切耳を貸さず、冷静さを欠いた点で、問題であったなと言う風に思います。それさえなければ、救いようのあったものでしょうが・・・
怖いですよね、思い込みって。いわれのないうわさやデマで、ジプシーの人たちやカジモドのような人たちが差別を受けるのですから。井の中の蛙、当時の人々はずいぶんと狭い世界で生きていた上、今のように医療や情報技術が発達していないが為に、うわさなどを信じるしかなかったのかもしれません(あくまで映画の内容から考えたことです)。歴史の教訓ですね。
・・・あ、話が逸れました・・・。
以上の3点で、思ったことを書いてみました。皆さんは映画をどう見たのでしょうか。気になるところです。
それじゃ、またねえ!