マーブルーのディズニーノート

大好きな「ディズニー」について、思ったことや発見したことなどを、思うままに書いていきます。

「みんなの」、アンパンマンとディズニー ―やなせたかしとディズニー(その2)

こんばんは。

前回に続き、「やなせたかし」と「アンパンマン」について書きたいと思います。

 

みんなの「アンパンマン」、みんなの「ディズニー」

テレビアニメになったら、アンパンマンは僕の手から離れていくから迷ったんだ。でも、みんなのアンパンマンになるんだから、と決意して、ひとつだけ条件をつけたんだよ。それは、アニメの中で歌われる歌の歌詞は、すべて僕が書くから、っていうことなんだ。

(教育新聞:2014年4月24日付 より抜粋)

  これはとある方がやなせさんから聞いた言葉だそうです。みんなのアンパンマン。やなせさんがつくったものだけど、やなせさんの物ではなくなる。

 

 ウォルト・ディズニーが言ったとされるこんな言葉があります。

『ディズニー』というのは、ある抽象的なもの、人々の心のなかにあるイメージを指している。ディズニーという言葉を聞けば、ある種のエンターテイメント、独特のファミリー・イメージが浮かんでくる。だから、僕自身はもはやディズニーじゃない。昔はディズニーだったけど。(能登路雅子『ディズニーランドという聖地』(岩波書店 1990)より抜粋)

 人々のイメージする「ディズニー」を演じる。テレビの中の「ウォルト・ディズニー」はもはや本当のディズニーじゃない。

 

 「アンパンマン」も「ディズニー」も、創り出した人とは違う別の人々、大衆の手によってつくられていくことになる。「本当の自分はこうなんだ!」と言っても、それが大衆にウケなければ意味がない。「ディズニー」はキャラクターではないですが、これまで一生懸命作り上げてきたものが自分の物ではなくなる(自分の思い通りにいかなくなる)と言う点で、なんだか複雑な気持ちになりますね。

 

作者の想いを引き継いで

 ウォルトの死後、後世の人たちによって今日まで「ディズニー」は創られてきました。ウォルトを失った衝撃は大きく、「ウォルトがいたら・・・」なんて実際にスタジオの人も思ったそうです。マイケル・アイズナー(1982年から2006年までのディズニー社のCEO)らが指揮を執るようになってからは、これまでと一変、旧来のやり方を変え新しい方法で「ディズニー」を創っていきます。

 

 「ディズニー」から新しいものが生み出されるたび、「ウォルトだったらどう考えるだろう」とか「ウォルトの考えに合っているのか」など、批評家ぶって私は考えてしまうのですが、いくら大衆ウケしたものとはいえ、上のやなせさんのように「これだけは譲れない」というものを持つことも大事なのかなと思いました。

 

 「ディズニーらしさ」って何なんだ、なんて最近考えています(笑)。わかりません。ファンタジー?んー・・・。

 「不易流行」なんて言いますね。変わっていくのはいいけれどその過程で大切なものを失わないでほしい。まあその、「大切なもの」が何なのか、私は分かってないのですが・・・。

 

 やなせさんは残念ながら去年の10月に亡くなられてます。今後アンパンマンはどうなっていくのでしょうか。やなせさんの想いを引き継いだ上で、みんなのアンパンマンが続いていってほしいなと思っています。(「ディズニー」に対しても同じ思いです(笑))